【目指せFIRE】仕事つらい手取り18万円32歳が、投資で稼いで早期退職目指すブログ

こんにちは、きりんです。哲学・詩・瞑想などが好きな超絶内向型人間。基本人に話しかけるのが恐い。組織で働くの辛すぎて、早く仕事を辞めて半隠遁生活を送りたい。そんな不純な動機から投資で稼いで、早期退職を目指します。

ジェイエル・コリンズ『父が娘に伝える自由に生きるための30の投資の教え』

2022.3.19

ジェイエル・コリンズ『父が娘に伝える自由に生きるための30の投資の教え』

インデックスファンドという投資信託の方法が紹介されている。

この本ではアメリカのインデックスを強く推奨していた。

たまたまその前に読んだ、横山光昭さんの 

『貯金感覚でできる3000円投資生活デラックス』

にも、インデックスファンドへの投資信託が紹介されていたので、「とりあえず、インデックスファンドへの投資へ…」との思いを強めた。

 

仮に、一か月の生活費が10万円とする。

すると、年間の生活は10万×12か月=120万円。

この120万円を不労所得で生み出すには?

詳しいことは忘れたが、コリンズ氏が言うには、アメリカのインデックスファンドは年間11.8%くらい運用利益が出るのだと。

仮に、年間10パーセントの運用利益が出るように運用できるならば、いくらインデックスファンドに投資すればいいか? 

投資額をXと置いて、

X×0.1=120万

という方程式を解けばいい。

ならば、

X=1200万。

「1200万円あれば、働かずに済む?」などと考えた。

 

不労所得で経済的自立を達成するには、資産運用額の4%で生活できる額を。とは後で知った話。)

投資関連本。『貯金感覚でできる3000円投資生活デラックス』

2022.3.12

横山光昭『貯金感覚でできる3000円投資生活デラックス』

ローソンの本コーナーにおいていて、たまたま見つけた本。

インデックスファンドのことは、ここで初めて知ったのではなかったかな。

たとえば3000円、こつこつと貯金感覚で積み立て投資をすると、長期的にはこれくらいお金が増えますよ、というのが数字と共に示されている。具体的な投資の方法も記されている。

 

「金持ち父さん」のいう、「お金に働いてもらう」ための具体的な方法のひとつとして、インデックスファンドに投資信託する、ということもひとつなのだな、と学習。

 

即座に大金持ちになることを期待はできないが、私が期待するのは、そのようなリッチな生活ではない。最低限の健康で文化的な生活が、不労所得によって持続可能ならば、それで充分だと思った。

 

〈ことばの瞑想〉のやり方

 

meditation

瞑想と言っても様々な方法が存在します。近年は宗教的な要素を脱色し、ビジネス界隈でも「マインドフルネス瞑想」などと瞑想が巷によく知られるようになりました。「マインドフルネス」という言葉の出どころは、仏教の「サティ」「正念」ですが、その仏教の中でも、サマタ系の瞑想、ヴィパッサナー瞑想と大きく(便宜的にではあれ)大別されるものの、それらはさらにさまざまな方法を内包するシステムです。また、キリスト教や他の様々な伝統においても、meditationと同じ言葉で指される実践は存在するけれども、その内実は実に多様であることと思われます。

 

ところで、meditation=瞑想という語について改めて英英辞書を引いてみると、「思索、黙考に従事すること。内省」といった説明「も」存在しており、宗教的伝統と直接に結びついた行(プラクティス)であることを必ずしも含意しないようにも見えます。じっさい、meditationの語源であるmeditatioは、精神的および身体的な訓練・練習全般を意味していたということ。

 

わたしがこのところ行っているのは、「ことばの瞑想」というもので、自分で勝手に考えてやり始めたものです。「ことばの瞑想」という言葉自体、あまりしっくりくる表現ではないため、もっといいネーミングがあればと思うのですが…。これをご紹介してみようと思います。

 

〈ことばの瞑想〉

 

瞑想法の中には、「考えること」に積極的に関与しないことで言語をいったん棚上げにするものも存在します。それに対し「ことばの瞑想」は積極的に、「ことば」の力を活用し、体験を豊かにしていこうというものです(具体的なやり方はあとで説明します)。

 

言葉はもろ刃の剣です。言葉は、体験を豊かにし新しい知見を開いてくれる一つの「訪れ」であると同時に、我々を既知の様式の中に押し込め、我々の生が本来的に持つ限りない可能性を覆ってしまう凝固した構築物でもあります。言葉は、人との交わりの中で用いるものであるから、私個人の所有物でなく、その意において往々にして「向こうから」与えられ、時に押しつけられるものです。しかし、例えば既存の言葉であったとしてもその言葉をどのように使うかという点において、私たちにはイニシアティブを取る余地があるのだと、私は考えます。

 

〈言葉の瞑想〉の手順

以下は、〈ことばの瞑想〉と私が呼ぶものの手順です。

〈ことばの瞑想〉
1,〈ことば〉選び
 たとえば、読んでいる本の中でピンとくる言葉、何か気になる言葉、魅かれる言葉などを選びます。おぼえていられるくらいの長さでピックアップするといいでしょう。日ごろから本を読んだり、人と話していて気になる言葉が有ったら、メモしておいてもいいかもしれません。長い言葉の時は、大事なキーワードだけでも覚えておいて、後で暗唱できるようにしておきます。また、その言葉から受ける感覚、その文章の持っている雰囲気として感じられる何かも、大切に感じておきます。
 例)「みづのなかにうかべる花 こゑをはなてり」(大手拓次の詩)。

 

2,環境づくり
 ゆっくり、集中してことばの瞑想に取り組めるよう環境を整えます。私の場合、床にクッションを引き、その上で足を組んで座れるようにします。集中が妨げられないように、テレビを消したり、必要な無いものは片づけて選んだことばに集中できるような空間をつくります。
 このように空間を整えるだけでなく、10分なら10分と時間を決め、タイマーもセットし、その間はことばの瞑想だけにとりくむように決めます。時間をセットするこも環境づくりの一部です。

 

3,選んだことばとつきあう
 ここが言葉の瞑想の本体部分です。
 わたしは、いわゆる坐禅のような格好で、結跏趺坐を組み、坐りますが、言葉に集中できるならば、特定の形にこだわる必要はないと思います。ただわたしは、体の形を定め、動かないことが言葉と一定の時間お付き合いしていく上で助けになるので、この方法をとっているだけのことです。
 ここで先ほどの言葉に注意を集めて、心の中で繰り返します。「みづのなかにうかべる花 こゑをはなてり」。呼吸の瞑想に親しみがある人は、呼吸に触れていることが、きづきと集中を保つうえで助けになるかもしれません。
 言葉は、ただ機械的に繰り返すのではなく、その言葉全体が持っている意味を味わいます。はっきりと意味が「分かる」ことよりも、その言葉がどのように感じられるか、その言葉が自分自身に何をもたらすのか、香りを嗅ぐようにその言葉の醸し出す雰囲気に大切に触れていることそのものが大事な気がします。そして
 その過程の中でどのようなことが起こるか、観察します。決めた時間が終わるまで続けます。
 途中で別のことを考え始めてしまったり、注意が途切れてしまったら、そのことに気づき、もとの言葉にもどりましょう(注意の対象を戻す。これは呼吸の瞑想で雑念に気づいたら呼吸に注意を戻すのと一緒です)。

 

4,体験を言語化する
 これはオプションですが、3の中でどのようなことが起こったか(どのような発見があったか、何に触れたかetc.)を言語化してもよいかもしれません。後で読み返した時に、この体験を想い出す助けになりますし、その体験をしっかりと受けとめて定着する上でも役に立ちます。

例)「みづのなかにうかべる花 こゑをはなてり」↓

qilin.hatenablog.jp

 

1~4でプロセスは以上です。

 

注意。今回は、大手拓次の詩を例としてとりあげましたが、これは作品の意味の「解釈」ではありません。そうではなく、「私はこの詩を読むことにおいて何を体験したのか」「大手の言葉は私に何をもたらしたのか」が、「4、」において表現されているのです。

もののもの言わぬ声

水に浮く花

 みづのなかに うかべる花 
 こゑをはなてり

大手拓次大手拓次詩集』原子朗編、岩波文庫、p.324

 

花、わたしは、一輪の小さな花をイメージする。
可憐で素朴な白い花が一本だけ、静かに浮かんでいる。
その姿が、ハッと目に飛び込んだ瞬間が、「こゑをはなてり」として、幽かかもしれないが、しかし鮮かに私の心に差し込まれる。

 

その「こゑ」は、人間の言葉で語られる声ではない。
それは、「もののもの言わぬ声」であり、「もののもの言わぬ語り」であるだろう。

ここでいう「もの」は、本来、どのような「もの」であってもよい。特別な「もの」である必要はない。この腕時計であっても、庭先のハーブの鉢であっても、あるいは座っているわたし自身であってもよい。

それらはしかるべき関心を持って注意を澄ませば、もののもの言わぬ声を発していることがわかる。「みづのなかにうかべる花」は、「もの」の「こゑ」の、一瞬の鮮烈さをわたしに届けてくる。

直観を実らせるには

〈直観〉あるいは〈閃き〉は、ある種の到来として経験される。

 

それはにおいと同じだ。

どこかからやってきて、痕跡を残すことなく立ち消える。 

それは地に足がついていない。

「単なる思い付き」だから。現実が吟味されず無責任でもある。

 

しかし、直観は現実に新鮮さと変革をもたらす火種でもある。

直観にはしっかりと痕跡を残し、地に足をつけてもらおう。

たとえば直観の訪れを、〈書き止める〉〈読み返す〉といった、素朴な方法で。

そうして眼前に対象を見据えることで、直観を吟味し、部分と部分の連関を構成し、全体を一つのシステムに仕上げること。それが〈論理〉の仕事だ。

 

そして最終的に、具体的な〈行為〉に結びつけること。

すなわち、〈いつ、どこで、誰が、何を「する」のか〉。

直観は行為に媒介されることで、はじめて地に根差し、実りをもたらす。

問う=探し求めるということは

友人の斎藤君と、神戸の阪急三宮駅で待ち合わせしているとします。数年ぶりの再会だからとても楽しみな気持ちで、改札を出てあたりをきょろきょろしながら、人ごみの中から彼を探し求めます。

 

「問うとはすべて探し求めることです。探し求めることはすべて、探し求められるものから予め方向を決定されています」。(ハイデガー存在と時間』(桑木・訳)岩波文庫,p.22)

 

探し求めるという事は、探し求めているそれを探し求めるという事です。探し求めるという事は、なんでもいいから見つければいいというわけではありません。探し求められるべきものは、森さんでもなく、奥野君でもなく、まさに斎藤君という特定の人物です。探すべき人物は、まさに斎藤君であるのであって、何を探すべきかは予め決定されています。

 

…と、当たり前すぎることを述べると、かえってわかりづらい気持ちになってきますが、探し求めるという事は、探し求める相手から、まさにその相手を探し求めることを促されている、ということだ、と言ってもいいかもしれません。

 

ハイデガーは、「問う」ということは、すべて「探し求めること」だと言います。ハイデガーは、「存在の意味」という高度に原理的な問いを問うているわけですが、「問うとは"すべて"探し求めること」と言っているのですから、「今日一日どう過ごそうか」「このブログ記事(わたしが今書いており、読者のみなさんが今読んでいるこの記事)は、どのようにして終わらせたらいいか」というような「問い」も、「探し求めること」であり、「探し求められていること」から予め方向を決定されているということになります。つまり、「今日一日どう過ごすか」「どうこの記事を結ぶべきか」という問いに対する「答え」が予め、私たちのその答えへの探し求めの方向性を、決定づけているということです。

 

では試みに問うてみましょう。
「このブログ記事はどのようにして結論付けるのがよいか?」。私には、まだ、この文章の結びがあきらかではありません。しかし、「この文章の結び」が私のこの執筆を方向付けてくれるはずです。繰り返しになりますが、なぜなら「このブログ記事はどのように結ぶべきか?」という問いも、ハイデガーによるなら、探し求められているものすなわち、「結ばれるべき文章の結び」によって予め方向付けられているはずだからです。

 

ここで明らかになるのは、「探し求められていること」によって、「わたし=探し求める者」は、いわば導かれ、招かれているのであって、わたしの恣意・好き勝手で「探し求めること」が為されるのではない、ということです。人が問うという営みを遂行する時、そこには一種の信頼がともなうのでなければなりません。その信頼とは探し求められているものから、いわば導きを受け、招かれていることへの信頼であり、その向こうから与えられた方向付けに向かって歩んでいけば、探し求められているものと出会うことができる、という信頼です。

 

しかし、なぜ探し求められているものへと自らの方向性を向け、歩んでいくことができるのか。それは探し求められているものが、幽かながらにも私たちに呼びかけや徴を送り、あるいは服の端を私たちの視界の端に見せ、あるいはその気配を運んでくれるからです。というか、問うという事そのものが、問われている者の気配の察知(たとえそれがどんなに不確かなものであったとしても)なのです。

 

わたしは、ここでこの記事の結びに到着した気がします。問いの当初には全く予想し、思い描いていない地点にたどり着きましたが、ここがひとまずの終着点であると感じます。
すなわち、

「問う=探し求めるという事は、例え終着地点がどこか予め「こちら」(=問う者であるわたし)には見えていなかったとしても、問われている相手からの導きと招きを信頼し、歩みを進めていくことである」と。

これがこの記事の終着点であり、「このブログ記事はどのようにして結論付けるのがよいか?」という問いからの歩みを導いてきたものだったということになります。

他者の応答によるわたしの被規定的世界内定位

ちかごろ、自己の二重性の問題を考えています。

 

1、世界の内部に属する存在としての、自己。
2、もう一つは、世界の開けとしての、自己。

 

1については、通常の自分というものの理解です。

つまり、ここにコップがあり、コップは机の上においてあり、そこには本もある。コップや机や本は、お家の中にあり、お家は○○という町にあり、この町は日本という国の一部で、日本は地球の一部にあって、地球は太陽系に属する。
それと同様に、私というものもある場所に存在するものであり、コップが机に存在しているように、私というのも世界の中に存在する。

 

他方で、私は世界がそこから開かれる場所でもあります。
わたしの目覚めと共に、朝日がそこに見え、小鳥の鳴き声が聞こえる。夜眠ってしまえば、世界もなくなってしまう。その意味で、私というのは世界がそこに姿を現してくれる場所であり、世界の「開け」です。

 

世界がそこから開ける開けであると同時に、世界の中に内属する一存在者でもある。
これは矛盾のようですが、矛盾した構造が、まさに私という存在を成しているのではないだろうか。

 

それとは別にもう一つ考えていること。
それは、自分というのは、他者の目に映ることによってはじめて自分になっているのではないだろうか。

ちょっととっぴな思考実行なのですが、もし自分が、他人に話しかけても、触れようとしても、まったく反応が返ってこない、という体験をしたとします。

最初のうちは、相手に話しかけても、相手はまったく返事をせずこちらも見ないとしたら、嫌な奴だな、何で無視するんだろう、くらいにしか思わないかもしれません。だけれど、会う人会う人皆同じように、まったく「こたえ」(返事)がなかったら、おやっと思いますよね。さらには相手に触れようとしても、手が相手のからだをすりぬけてしまう、イコール、手「応え」がなかったとしたら、ただごとではないことがわかりますね。その時点で、自分が幽霊か、透明人間のような何かになってしまった、ということが分かるはずです。

 

つまり何がいいたいかというと、他者からの何らかの「応答=こたえ」を与えられて初めて、「自分」という存在は他者と共有された世界に存在する何かなんだという認識が可能になるのではないか、という事です。誰かの応答があって、自分は相手の瞳に映っているんだ、ということがわかり、自分が幽霊ではないということがわかり、自分がこの他者と共に生きる世界に生きているということがわかるのではないか。

 

これを逆に言うと、私たちが、他者に向かって応答を返す、ということがどれほど重要なことか。「おはよう」と言われたときに「おはよう」と返すこと。それは相手の存在をそこに認める、ということであり、相手の存在を幽霊にしない、ということです。

ところで、「おはよう」に対して「うるさい!」と返すことも可能です。これは相手の存在を幽霊にはしない、という意味では、「相手の存在をそこに認めること」ではありますが、言われた相手はいいきもちはしないでしょう。なぜなら「うるさい!」という応答は、「うるさいことを言うおまえ」「俺の気にくわない存在であるお前」というような意味をそこに生むからです。

ここからわかるのは、他者の応答は、「自分が単に存在していること」だけではなく、「自分が"どのように"存在しているかということ」を、規定してくる働きをもつということではないでしょうか。

 

私の、世界内(他者と共に在る世界内)への存在は、他者からの応答なしには確定されないということをここまで見てきたわけですが、私が「どのような存在」として存在するか、ということも他者の応答によって定立されるのではないか。逆に言うと、私たちの他者への応答は、他者を「何らかの在り方で-在るものとして-世界内に定位する」ということなのではないか。

 

無人島で、わたしはこの島の大統領だ、と自己規定したところで、無意味です。
私がどのような在り方をしているか、ということは、他者の応答や認証によって、はじめてリアリティを帯び、世界-内に定位されるのではないでしょうか。

 

「他人が私をどう言おうと、わたしはわたし」。

確かに、これも正しいようには思われますが、それでもやはり他人がわたしにどう応答しているか、ということが世界内に存在するわたしの概念を規定することは避けがたいことなのだと思われます。なぜなら、いくら他者による規定を否定・軽減しようとしたところで、「○○さんに、無責任な奴と言われた、にも関わらず他人が私をどう言おうと、わたしはわたしと言っているわたし」「別にわたしは自分をそうは思っていないが、□□さんには優秀ですと言われたわたし」という風に、わたしの概念の中に、他者の私への既定の仕方が織り込まれ来るからです。

 

わたしという存在は、他者からの応答によって、その応答の織り込まれた複雑な意味的構成体として、世界に定位される。逆に言うと、わたしの他者への応答も、他者の存在を認め、その存在の意味的構成に織り込まれるということですから、非常に重要なことです。

 

以上、言ってみればこれはひとつの自己の存在論なのですが、その構造は非常に縁起的ですね。叶う事なら「良く」自他ともに縁起したい、というのが私の倫理です。だから上の理論が「応答」というような概念を選択しているとおり、できるだけ具体的実践とリンクするようにしたいなとも思うのです。もうすこし、すっきりと洗練された形で表現できると良いのですが…。引き続き、同じテーマで考えて行きたいと思います。