【目指せFIRE】仕事つらい手取り18万円32歳が、投資で稼いで早期退職目指すブログ

こんにちは、きりんです。哲学・詩・瞑想などが好きな超絶内向型人間。基本人に話しかけるのが恐い。組織で働くの辛すぎて、早く仕事を辞めて半隠遁生活を送りたい。そんな不純な動機から投資で稼いで、早期退職を目指します。

(メモ)

大地を否定する翼は、着陸することもなければ離陸することもない。
ゆえに、大地からの解放・飛翔の自由を知らぬまま、ただ宙を漂流する。
大地を肯定しそれを蹴る者のみが飛翔の歓びを得る。

 

際限なく事物の相対性のみを説く教説は、重力の必然を知らない翼と同様に、創造の歓びを味わうことがない。

ルオーの道化師

先生、こんばんは。
今日は灰色の雨の中、美術館に足を運びました。

 

作品はその一つ一つが、異なる質感qualiaを持っています。
絵画の前に立ち、じっと見つめていると、その作品の「手触り」が、わたしのからだの内側に立ち現れてきます。その「手触り」は、作品のaura(雰囲気)と言ってもいいし、素朴に「香り」と表現してもいいでしょう。それは知的分析によって「理解」されるものではなく、ソムリエがワインを「利く」ときのように、そっと嗅がれる類のものです。

 

じつは、今日はルオーの道化師に会うために美術館を尋ねたのです。わたしは以前、ルオーの名も知らぬ頃、彼の道化師に心を打たれる体験があって、以来彼の絵に惹かれています。今日は近場の美術館にルオーの道化師が来ていると聞きつけ、さっそく足を運んだのでした。

 

期待していた分、かつてのような衝撃は無かった、というのが正直なところです。
なんの準備も施されていない、まっさらな心に差し込む新鮮さな邂逅は、意欲して得ること能わざるものであることを、承知してはいるのですが。

 

しかしながら、じいっと彼の顔に見入っていると、幸いにも彼のプレゼンスがひたひたとわたしを訪れてくれました。芸人であり、職人であり、労働者であり、市井の生活者でもある彼。くちびるの穏やかなほほ笑み、目元の深く静かな悲しみ。「あぁ、わたしはこの人にあったことがある」。

 

ルオーは言ったそうです、私たちは多かれ少なかれ、みな道化師なのだと。
そう、わたしたちの間に彼を見たことはなかったか。わたしはイエスと答える者です。

 

死んだらどうなるのか考えてよく寝付けなかった話

小さなころ、ふとんの中で考えて寝つけなかったのを覚えています。「死んだらどうなるのだろう?」。考えれば考えるほど、そのわからなさに体がむずむずしてきます。もどかしさが大きくなってどうしようもなくなっては、自分に言い聞かせていました。「考えてもしかたがないんだから、今をいっしょうけんめい生きるんだ」。

 

子どもの頃に、死を考えることは、別に稀なのことではないのでしょう。そのことをだれかに表現するかは別として。わたしの場合、母に「死んだらどうなるんだろう」と疑問をぶつけたところ、「死んだら天国に行くんだよ。先に行って待ってるからね」と答えてくれました。まだ小学校に入る前だったと思います。しかし中学生になって同じことを聞いたときは、「それが分からないから、人間は死を恐れるのではないか」と答えてくれたのを覚えています。

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「こどものころ死について考えていて、怖いと感じた」と言っている人を、私は何人か知っています。

 

しかし、わたしの場合、感じていたのは「死が恐い」という気持ちだったのか。いや、そうではなかったと思います。そうではなく、死あるいは無を思い浮かべることができない、というもどかしさにどうしようもなく、体がむずむずして不安だったのだと、今振り返るとわかります。

 

幼いころ、身近に目の不自由な方がおられました。いつも賢い盲導犬のワンちゃんといっしょに歩いておられました。


わたしの抱く疑問はこうです。
「目がみえないってどんなことなんだろう?」。
この疑問は、目が見えない生活ってどういう暮らしなのか、とか、どんなお部屋に暮らしてどうやってご飯を食べているんだろう? といった疑問ではありません。そもそも目が見えないという「そのこと」そのものがどういうことなのか、という疑問です。


一生懸命、目が見えない状態を想像しようとして、ぎゅうっと目をつむりました。でも、見えてしまうのです。まぶたの裏の暗闇やカメラのフラッシュの後のようなぼんやりとした光が。暗闇では「何も見えない」わけですが、その「まっくらさ」は目に見えてしまっているわけです。これじゃあ本当に何も見えないわけではない、だってこの黒い暗闇が見えているじゃないか。じゃあ、本当に何も見えない、ってどういうことなの?

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死を思い浮かべることのもどかしさは、それとよく似ていました。死んだら、体が動かなくなって、冷たくなる。遺体が焼かれたら灰や骨だけになって、お墓に入る。そんなことはわかります。でも「その時、自分はどうなるのだろう? その時、自分はどこにいるのだろう? 死ぬと、自分は無くなってしまうの? だとするなら、自分が無になるってどういうことなの?」

 

「何も無い」「じぶんが無い」ということをそこで、一生懸命、想像しようとします。電気の消えた寝室の布団の中で、一生懸命目をつむって無のつもりになろうとします。でもやっぱり、まぶたのうらがわの闇はあるし、何もない空っぽな場所を思い浮かべて、これが無なのかな? と考えても、やっぱり「何もない空っぽな場所」が「ある」ことになっちゃって、それは「何も無い」ではないわけです。どうしても「何も無い、じぶんも無い」を思い浮かべることができません。「自分が死ぬということ」=「自分がいなくなる、無になる」ということなのだとしたら、どうしても自分が死ぬとどうなるのか、想像できない。それがむずむずして、すごくもどかしいのです。

 

それは、「死ぬのが怖い」というのとはちょっと違う気がします。どうしてもわからない、という壁にぶつかってしまった、というよりむしろ、壁に一歩近づくたびに、壁が一歩逃げていくような、もどかしさ。

「この世で一番でかい数!」を想い浮かべても、それに1を足すだけで、それよりでかい数ができてしまいますね。だから「この世で一番でかい数!」を思い浮かべられません(小学1年の時、クラスの友達に、一番大きい数は無い、数に終わりはないんだよ、と話したらその子は「うっそー!」と目を丸くして驚いて、ふたりで担任の先生に相談しに行きました。そうしたらやっぱり先生も数に終わりはない、と言ってくれました)。それは壁にぶつかりたくても、逃げてしまう壁を永遠に追いかけているような、手応えの無い、不確かな感覚です。

 

ですから、わたしにとって「死」とは、怖いとも言えないもの、ほんとうによくわからないもの、です。大人になったいまでもそうです。でも新しい発見もありました。「何も無い」ということは、意外と「ある」のではないか、わたしたちはすでにそれを知っているのではないか、ということです。それに気づいてから、ますます、「何も無い」は「怖い」ものではないのだと、思うようになりました。それについてはまた別に書こうと思います。

いと惜しさについて。先生へ

先生

こんにちは。ご無沙汰しておりました。
だんだんと日がのびてくるのを感じ、春の気配を先取りして喜んでいる日々です。が、あいにく今日はみぞれのような雪。先生におかれましても、足元も悪いのでおきをつけくださいますよう。

 

さて、先日「愛おしい」という言葉について考えていました。「愛おしい」とは「いと惜しい」ではないかと。「愛しい(かなしい)」は「哀しい」であるとも聞きますが、愛おしいという気持ちには、それに似た悲哀も付随するような、そんな気もしたりします。

 

「明日死ぬかのように想い、行いなさい」。トマス・ア・ケンピスという人がそういうことを書いています。朝、仕事に向かうバスで、彼の言葉を思い出し、ぼんやりと外を眺めながら「今日が最後の一日、今日で死んでしまうとしたら…」と考えていました。すると、なんだかちょっと古びた民家が、あるいは自身の中に生じては消えていく今日の仕事に対する不安と言ったなじみの情動までもが、なんだか愛おしく大切なものに感じられてきて。

 

わたしが感じた「いと惜しさ」の「惜しさ」というのは、単に「もったいないから後に取っておきたい」という時とは違っています(それは、対象を自己の手元に握りしめ保存しておきたいというような執着的な感覚です)。それより、「別れが惜しい」というような「惜しさ」に似たやや複雑な感覚で…。というのも、卒業式なんかで別れが惜しいときは、相手ともっと一緒に居たい、居たかった、というような執着的な感覚と同時に、その相手の存在をしみじみと大切に感じ入るような、感謝をも伴う感覚がそこにありますよね。わたしが感じたのはそれに似ています。だから、「いと惜しい」=「愛おしい」し、それは「かなし」でもあるのだと。

 

「いつも嫌みばかり言っている同僚でも、いつか必ず死ぬ」。
これも最近読んだ別の本に書いていたのですが、その日、不思議と職場に行っても、いつも人の批判ばかりしているちょっと苦手な相手を含めてその場に自分が居られること、その環境に有難さ、を感じることができました。死への準備をしていくということは、逆説的ですが生を豊かにするもののように思います。

 

先生、それではまた。

雪の香りのように微かでも

バスを待つ。
雪戴く木々にさえずる鳥の声を聴く。
四十雀のフォルムと色調は、冬の枯れ枝と淡い青空によく映えていた。

 

わたしが幸福を実感するのは、物質的条件や人々の評(価/判)の追求においてではない。すでに与えられている生きているというよろこびを、(たとえそれが雪の香りのように微かにでも)感受し得る自己の力能の確認においてである。

他者や自然との〈交歓〉という単純な祝福を感受する能力の獲得をとおして、〈現在〉の生が、意味に飢えた目を未来にさしむける必要もなく充実してある(…) 見田宗介現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』p.99

 

河伯さん海に出会う

このところ、『荘子』という古代中国の書物を読んでいます。

今から、2000年以上も昔に書かれたようですから、大変古い本です。はじめて読むのに、なんだか懐かしいような。夜寝る前に、パンをちぎってひとかみひとかみ食べるように、ちょっとずつ読んでいます。

 

荘子』は、『ハリーポッター』や『モモ』のように、全体通して一つの物語になっているのではなくて、たくさんの短い物語やお話の寄せ集め、という格好になっています。昨晩読んだのは、「秋水編」と呼ばれる章。

 

「秋水」というのは、秋の大雨で川の水が増えることなのだそうです。

さて、中国には、黄河といって、大きな大きな河(かわ)がありますけれど、このただでさえ大変大きな河が秋水でさらに水かさを増し、あふれんばかりになりました。その河の広さと言ったら、向こう岸に居る動物が点のようになって、牛なのか馬なのか見わけがつかないくらい。

 

黄河の主である、河伯さんはこの河の大きさに大得意です。「天下の美を以てことごとく己に在りと為す__世界中のすばらしいものは、ぜんぶ、ぼくがもっているのさ!」。

 

河伯さん、大得意のいい気分で、河を東へ、また東へと下っていきました。すると、突き当たるのはどこですか。海です。びっくりした河伯さんは、恥ずかしくなってしまいました。なぜなら、全ての河の注ぐ先である海は、いくら黄河が広しと言えども、もっともっと、もっと大きかったからです。

 

ここで、北海若さんという人が登場します。北海若さんは、北の海の主です。「世界中の水で、海より大きいものはない。しかし、私はその大きさで得意になったことはない。大地をとりまくこの広大な海でさえ、天地の間にある。そう考えると、天と地の間にある、私なんてものは、大きな山にある、ちっぽけな石、やせっぽっちの木のようなもの。どうして得意になんて思えようか。じぶんのつまらなさが目に付くばかり」。

 

自分の小ささを感じると同時に、なんだか、とても大きな場所に開かれていく感じがしませんか。自分のもちものに得意になっている時は、心はその自分の「もの」でいっぱいになっています。

でも、星空を見上げている時の、あの不思議な感じ。

空に瞬く星々と、どこまでも静かにたたずむ星間のくらやみは、わたしのものではありませんし、だれのものでもありません。夜空がわたしの「手中にある」(「己に在りと為す」こと)なんて絶対になく、むしろ、わたしというちっぽけでやわらかなかたまりは、夜空の中に浮かび、夜空に浸されています。そういう世界に開かれるとき、どこかちょっと怖いような、なつかしいような、不思議なような、そんな感じがからだにやってきませんか。

 

荘子』を読んで感じる、なつかしさの一部は、この感じとも少し、つながっているような気がしています。