問う=探し求めるということは
友人の斎藤君と、神戸の阪急三宮駅で待ち合わせしているとします。数年ぶりの再会だからとても楽しみな気持ちで、改札を出てあたりをきょろきょろしながら、人ごみの中から彼を探し求めます。
「問うとはすべて探し求めることです。探し求めることはすべて、探し求められるものから予め方向を決定されています」。(ハイデガー『存在と時間』(桑木・訳)岩波文庫,p.22)
探し求めるという事は、探し求めているそれを探し求めるという事です。探し求めるという事は、なんでもいいから見つければいいというわけではありません。探し求められるべきものは、森さんでもなく、奥野君でもなく、まさに斎藤君という特定の人物です。探すべき人物は、まさに斎藤君であるのであって、何を探すべきかは予め決定されています。
…と、当たり前すぎることを述べると、かえってわかりづらい気持ちになってきますが、探し求めるという事は、探し求める相手から、まさにその相手を探し求めることを促されている、ということだ、と言ってもいいかもしれません。
ハイデガーは、「問う」ということは、すべて「探し求めること」だと言います。ハイデガーは、「存在の意味」という高度に原理的な問いを問うているわけですが、「問うとは"すべて"探し求めること」と言っているのですから、「今日一日どう過ごそうか」「このブログ記事(わたしが今書いており、読者のみなさんが今読んでいるこの記事)は、どのようにして終わらせたらいいか」というような「問い」も、「探し求めること」であり、「探し求められていること」から予め方向を決定されているということになります。つまり、「今日一日どう過ごすか」「どうこの記事を結ぶべきか」という問いに対する「答え」が予め、私たちのその答えへの探し求めの方向性を、決定づけているということです。
では試みに問うてみましょう。
「このブログ記事はどのようにして結論付けるのがよいか?」。私には、まだ、この文章の結びがあきらかではありません。しかし、「この文章の結び」が私のこの執筆を方向付けてくれるはずです。繰り返しになりますが、なぜなら「このブログ記事はどのように結ぶべきか?」という問いも、ハイデガーによるなら、探し求められているものすなわち、「結ばれるべき文章の結び」によって予め方向付けられているはずだからです。
ここで明らかになるのは、「探し求められていること」によって、「わたし=探し求める者」は、いわば導かれ、招かれているのであって、わたしの恣意・好き勝手で「探し求めること」が為されるのではない、ということです。人が問うという営みを遂行する時、そこには一種の信頼がともなうのでなければなりません。その信頼とは探し求められているものから、いわば導きを受け、招かれていることへの信頼であり、その向こうから与えられた方向付けに向かって歩んでいけば、探し求められているものと出会うことができる、という信頼です。
しかし、なぜ探し求められているものへと自らの方向性を向け、歩んでいくことができるのか。それは探し求められているものが、幽かながらにも私たちに呼びかけや徴を送り、あるいは服の端を私たちの視界の端に見せ、あるいはその気配を運んでくれるからです。というか、問うという事そのものが、問われている者の気配の察知(たとえそれがどんなに不確かなものであったとしても)なのです。
わたしは、ここでこの記事の結びに到着した気がします。問いの当初には全く予想し、思い描いていない地点にたどり着きましたが、ここがひとまずの終着点であると感じます。
すなわち、
「問う=探し求めるという事は、例え終着地点がどこか予め「こちら」(=問う者であるわたし)には見えていなかったとしても、問われている相手からの導きと招きを信頼し、歩みを進めていくことである」と。
これがこの記事の終着点であり、「このブログ記事はどのようにして結論付けるのがよいか?」という問いからの歩みを導いてきたものだったということになります。