【目指せFIRE】仕事つらい手取り18万円32歳が、投資で稼いで早期退職目指すブログ

こんにちは、きりんです。哲学・詩・瞑想などが好きな超絶内向型人間。基本人に話しかけるのが恐い。組織で働くの辛すぎて、早く仕事を辞めて半隠遁生活を送りたい。そんな不純な動機から投資で稼いで、早期退職を目指します。

他者の応答によるわたしの被規定的世界内定位

ちかごろ、自己の二重性の問題を考えています。

 

1、世界の内部に属する存在としての、自己。
2、もう一つは、世界の開けとしての、自己。

 

1については、通常の自分というものの理解です。

つまり、ここにコップがあり、コップは机の上においてあり、そこには本もある。コップや机や本は、お家の中にあり、お家は○○という町にあり、この町は日本という国の一部で、日本は地球の一部にあって、地球は太陽系に属する。
それと同様に、私というものもある場所に存在するものであり、コップが机に存在しているように、私というのも世界の中に存在する。

 

他方で、私は世界がそこから開かれる場所でもあります。
わたしの目覚めと共に、朝日がそこに見え、小鳥の鳴き声が聞こえる。夜眠ってしまえば、世界もなくなってしまう。その意味で、私というのは世界がそこに姿を現してくれる場所であり、世界の「開け」です。

 

世界がそこから開ける開けであると同時に、世界の中に内属する一存在者でもある。
これは矛盾のようですが、矛盾した構造が、まさに私という存在を成しているのではないだろうか。

 

それとは別にもう一つ考えていること。
それは、自分というのは、他者の目に映ることによってはじめて自分になっているのではないだろうか。

ちょっととっぴな思考実行なのですが、もし自分が、他人に話しかけても、触れようとしても、まったく反応が返ってこない、という体験をしたとします。

最初のうちは、相手に話しかけても、相手はまったく返事をせずこちらも見ないとしたら、嫌な奴だな、何で無視するんだろう、くらいにしか思わないかもしれません。だけれど、会う人会う人皆同じように、まったく「こたえ」(返事)がなかったら、おやっと思いますよね。さらには相手に触れようとしても、手が相手のからだをすりぬけてしまう、イコール、手「応え」がなかったとしたら、ただごとではないことがわかりますね。その時点で、自分が幽霊か、透明人間のような何かになってしまった、ということが分かるはずです。

 

つまり何がいいたいかというと、他者からの何らかの「応答=こたえ」を与えられて初めて、「自分」という存在は他者と共有された世界に存在する何かなんだという認識が可能になるのではないか、という事です。誰かの応答があって、自分は相手の瞳に映っているんだ、ということがわかり、自分が幽霊ではないということがわかり、自分がこの他者と共に生きる世界に生きているということがわかるのではないか。

 

これを逆に言うと、私たちが、他者に向かって応答を返す、ということがどれほど重要なことか。「おはよう」と言われたときに「おはよう」と返すこと。それは相手の存在をそこに認める、ということであり、相手の存在を幽霊にしない、ということです。

ところで、「おはよう」に対して「うるさい!」と返すことも可能です。これは相手の存在を幽霊にはしない、という意味では、「相手の存在をそこに認めること」ではありますが、言われた相手はいいきもちはしないでしょう。なぜなら「うるさい!」という応答は、「うるさいことを言うおまえ」「俺の気にくわない存在であるお前」というような意味をそこに生むからです。

ここからわかるのは、他者の応答は、「自分が単に存在していること」だけではなく、「自分が"どのように"存在しているかということ」を、規定してくる働きをもつということではないでしょうか。

 

私の、世界内(他者と共に在る世界内)への存在は、他者からの応答なしには確定されないということをここまで見てきたわけですが、私が「どのような存在」として存在するか、ということも他者の応答によって定立されるのではないか。逆に言うと、私たちの他者への応答は、他者を「何らかの在り方で-在るものとして-世界内に定位する」ということなのではないか。

 

無人島で、わたしはこの島の大統領だ、と自己規定したところで、無意味です。
私がどのような在り方をしているか、ということは、他者の応答や認証によって、はじめてリアリティを帯び、世界-内に定位されるのではないでしょうか。

 

「他人が私をどう言おうと、わたしはわたし」。

確かに、これも正しいようには思われますが、それでもやはり他人がわたしにどう応答しているか、ということが世界内に存在するわたしの概念を規定することは避けがたいことなのだと思われます。なぜなら、いくら他者による規定を否定・軽減しようとしたところで、「○○さんに、無責任な奴と言われた、にも関わらず他人が私をどう言おうと、わたしはわたしと言っているわたし」「別にわたしは自分をそうは思っていないが、□□さんには優秀ですと言われたわたし」という風に、わたしの概念の中に、他者の私への既定の仕方が織り込まれ来るからです。

 

わたしという存在は、他者からの応答によって、その応答の織り込まれた複雑な意味的構成体として、世界に定位される。逆に言うと、わたしの他者への応答も、他者の存在を認め、その存在の意味的構成に織り込まれるということですから、非常に重要なことです。

 

以上、言ってみればこれはひとつの自己の存在論なのですが、その構造は非常に縁起的ですね。叶う事なら「良く」自他ともに縁起したい、というのが私の倫理です。だから上の理論が「応答」というような概念を選択しているとおり、できるだけ具体的実践とリンクするようにしたいなとも思うのです。もうすこし、すっきりと洗練された形で表現できると良いのですが…。引き続き、同じテーマで考えて行きたいと思います。