いと惜しさについて。先生へ
先生
こんにちは。ご無沙汰しておりました。
だんだんと日がのびてくるのを感じ、春の気配を先取りして喜んでいる日々です。が、あいにく今日はみぞれのような雪。先生におかれましても、足元も悪いのでおきをつけくださいますよう。
さて、先日「愛おしい」という言葉について考えていました。「愛おしい」とは「いと惜しい」ではないかと。「愛しい(かなしい)」は「哀しい」であるとも聞きますが、愛おしいという気持ちには、それに似た悲哀も付随するような、そんな気もしたりします。
「明日死ぬかのように想い、行いなさい」。トマス・ア・ケンピスという人がそういうことを書いています。朝、仕事に向かうバスで、彼の言葉を思い出し、ぼんやりと外を眺めながら「今日が最後の一日、今日で死んでしまうとしたら…」と考えていました。すると、なんだかちょっと古びた民家が、あるいは自身の中に生じては消えていく今日の仕事に対する不安と言ったなじみの情動までもが、なんだか愛おしく大切なものに感じられてきて。
わたしが感じた「いと惜しさ」の「惜しさ」というのは、単に「もったいないから後に取っておきたい」という時とは違っています(それは、対象を自己の手元に握りしめ保存しておきたいというような執着的な感覚です)。それより、「別れが惜しい」というような「惜しさ」に似たやや複雑な感覚で…。というのも、卒業式なんかで別れが惜しいときは、相手ともっと一緒に居たい、居たかった、というような執着的な感覚と同時に、その相手の存在をしみじみと大切に感じ入るような、感謝をも伴う感覚がそこにありますよね。わたしが感じたのはそれに似ています。だから、「いと惜しい」=「愛おしい」し、それは「かなし」でもあるのだと。
「いつも嫌みばかり言っている同僚でも、いつか必ず死ぬ」。
これも最近読んだ別の本に書いていたのですが、その日、不思議と職場に行っても、いつも人の批判ばかりしているちょっと苦手な相手を含めてその場に自分が居られること、その環境に有難さ、を感じることができました。死への準備をしていくということは、逆説的ですが生を豊かにするもののように思います。
先生、それではまた。