天の声、聞こえていたが知らんふりすること十余年
今日も「命運」シリーズということで思う処を書いていきます。
前の記事では、旧約世界の預言者、ヨナとモーセの話をしました。
今、注目しているのは、有名な孔子のこの言葉です。
「吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順ふ(したがう)。
七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず」。
ある種の東洋における「ライフサイクル」論とも言える、とても有名な言葉ですけれども、その中でも興味を魅かれるのは、「六十にして耳順う(したがう)」。
口語訳をいくつか当たりますと、「耳順う」とは「人の言葉に素直に耳を傾けられるようになる」というような解釈になっているようです。が、正直なところ、それではずいぶんつまらない。「人の言葉に直に耳従う」というのは処世の営みとしては大切かもしれないが、いささか世間内・道徳的で、退屈な感じがいたしませんか。
むしろ、この「耳順う」というのは、直前の「五十にして天命を知る」を承けるものであると読んではどうでしょう。つまり一応は、五十にして己の天命を知るわけですけれど、その天命を身に引き受け、聴き従うようになったのがようやく六十になってからだ、と私はこのように読んでみたいのです。「天の声、聞こえていたが知らんふりすること十余年。ようやく無視するわけにもいかなくなってきた六十歳…」というほうが、人間理解として余程味わい深く、面白いではありませんか。
先日、モーセとヨナの話についてあのように書いたから余計にそう思うのですけれど、命運は必ずしも最初受け入れやすいものではなく、拒否や遁走が伴いがちであると考えるなら、耳順うのに10年というのは、さもありなんという感じもします。むろん、ヨナのように三日三晩魚の中に居て、劇的な仕方で再新再生する人もあるでしょうが。