【目指せFIRE】仕事つらい手取り18万円32歳が、投資で稼いで早期退職目指すブログ

こんにちは、きりんです。哲学・詩・瞑想などが好きな超絶内向型人間。基本人に話しかけるのが恐い。組織で働くの辛すぎて、早く仕事を辞めて半隠遁生活を送りたい。そんな不純な動機から投資で稼いで、早期退職を目指します。

命運をお預かりする難しさ。聖書の人々の拒否と遁走

最近、じぶん自身の「命運」について考えています。
この大仰な言葉、辞書を引くと、「運命」とか「身の定め」「めぐりあわせ」とかそんな意味もあるらしい。

 

そもそも、命運だのなんだのそのようなものが存在するとなぜ言い得るのか、といった問いは一旦、ここでは留保することとして、自身の「命運」に直面した際の人間の在り様を描くものとして旧約(聖書)の預言者たちを見ていると、とても人間的で面白い、と感じます。

 

旧約聖書から二つの物語を引きましょう。

神様に口ごたえするモーセさん

まず「モーセ」という人。

当時、イスラエルの人々はエジプトに捕らえられ重労働を課せられていました。モーセは、そのイスラエルの人々を、解放するようファラオ(エジプトの王)を説得しなさいと、神様から「命」を受けます。しかし、モーセは自身に与えられた「命」に対して(神様に対して)「口ごたえ」をします。

 

「ファラオを説得するなんて、できっこありませんよ。だって僕、口下手なんですからね。身内(イスラエルの民)ですら、僕の話をまじめに聞こうとしなかったんですから。ファラオを説得するとか、なおさら無理に決まってるじゃないですか」。

 

聖書では、「よげん」の「よ」は預金通帳の「預」。予言ではなくて、「預言」と書く。つまり、預言者とは、神様の「言葉」を「お預かり」する人のことを言います。せっかくの神様のお言葉を、モーセはお預かりしたくなかったようです。

 

遁走するヨナさん

もう一つの物語の主人公、「ヨナ」という預言者も、大変面白い。
『ヨナ書』はこのように始まります。

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」。

ヨナ書では次のように続きます。

 

主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシュに向かった。」

 

神の言葉が人に臨む。ここで、言葉は命ずる働きとしてあります。
つまるところ、神様の言葉は、「命令」であってヨナにとっては「命運」の宣告だったのですが、ヨナはそれから見事に背を向けて逃げ出すわけですね。


その後、

・ヨナ、船に紛れ込んで逃げ出す
・神様、海を大荒れにする
・海が荒れているのは誰のせいか、犯人捜しが船内で始まる
・ヨナのせいだとばれる
・ヨナ、船の人々に海へとダイブさせられる
・ヨナ、魚に食われて三日三晩魚のお腹の中で過ごして、ようやく神様の言うことを聴く気になる

 

…という風に物語は続いていきます。
ともあれ、モーセにしても、ヨナにしても、神様あるいは自身の「命運」を一度は拒み(逃げ出す)というところが、人間のリアルな反応に思えます。

答えを求めつつ拒否る

「わたしの人生の意味ってなんだろう」
「わたしの才能って何」
「わたしの本当にやりたいことってなんだろう」

 

…等々といった、この類の問いに答えを求めたくなる一方で、もしも、それに対して応答が返ってきてしまったとしたら、人はそれを受けとめられるのだろうか、その答えを「お預かり」することができるだろうか。そのように考えると、

 

「なぜ、この私が?」
「やっぱり私には無理です」
「私なんかじゃなくて、誰か他の人探してくださいよ」

 

と、一度は言いたくなるのが、本当なんじゃないだろうかと思うに至ります。

神様を信じているかどうかといったことはここでは問題ではありません。
ただ、自分の人生をどのように生きていくのか問う際(自分自身の個別的な生に意味を見出し、それを引き受けていこうとする際)、求める答えは、必ずしもすんなり受け入れられるものでもないかもしれない。

むしろそこに立ち現れるプロセスの一局面として、自身の生を「お預かりする」ことへの困難さ(抵抗・逃走)はつきものなのではなかろうか。「命運」という言葉と関連させつつ、聖書の物語を思い返しながら、そのように思います。